フィリピン全土の地図Map of Philippines

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フィリピン一般事情

面積: 299,404k㎡(377,835k㎡)
人口: 8,310万人(1億2,810万人)
平均寿命: 男性67歳、女性73歳(男性79歳、女性86歳)
識字率: 92.2%(99.8%)
大学進学率: 約30%(45.5%)
※カッコ内は日本

首 都

正式な首都名はメトロ・マニラ
日本ではマニラで通っているフィリピンの首都だが、正式には「メトロ・マニラ」。日本語にすれぽ「マニラ首都圏」といったところだ。メトロ・マニラはマカティ、パサイ、ケソンなどの都市の集まりで、マニラはその中のひとつの都市に過ぎない。少しわかりにくいが、日本の首都は東京なのに東京という都市は存在せず、23区の集合体であるというように置き換えて考えるといい。

歴 史

マゼランに発見されたフィリピン

フィリビンが歴史の表舞台に登場するのは、1521年、フェルディナンド・マゼランー行が現在のセブ・シティに上陸してがら。スペインはそれまでバランガイという無数の親族集団がちらばっていた約7000の島々を、「フィリピン」という群島国家にまとめていった。約300年間に及ぶスペイン統治は、この国にキリスト教を花開がせ、食文化や言葉、生活様式にいたるまで幅広い影響を与えた。

スペイン統治下の植民地基の形成

フィリピン諸島は、ルソン島、ミンドロ島、そしてピサヤ諸島と呼ばれる七つの島ーサマル島、レイテ島、マスバテ島、ボホル島、セブ島、ネグロス島、パナイ島ーとミンダナオ島、パラワン島、スルー諸島など大小約7100の島々から成る。これらの島々が「フィリピン諸島」と呼ばれるようになったのは、一六世紀半ばのスペインによる遠征と征服をきっかけとするものである。
この諸島では、スペインが植民地化する以前に統一国家が形成されたことはなく、ルソン島やピサヤ諸島の各島では、バランガイ(元来の意味は、小船)と呼ばれる集落が、住民の基本的な生活単位であった。多くのバランガイは、海岸や湖のほとり、または内陸部の河岸沿いにあった。これは、通常30~100戸程度の家族で構成され、首長に資られた自然集落であった。もっとも複数のバランガイが;の大きな集落を成し、数百戸を超える家族を擁していることもあった。一部の地域では、異なるバランガイの間で一定の政治的秩序を維持するための連合組織、すなわち、バランガイ連合成立していたが、これは村落を結合する萌芽的組織にすぎなかった。ところが、その一方で、イスラム文化がミンダナオ島からルソン島やピサヤ諸島へと北上する傾向にあり、スルー諸島では14世紀後半頃からイスラム社会が形成され、15世紀半ば頃には、イスラム文化の影響のもとにスルタンを頂点とする部族国家が成立していた。「スペインによるフィリピン諸島の征服があと半世紀遅れていたら、ルソン島やビサヤ諸島もイスラム文化の影響下に置かれていたかもしれない」と指摘する歴史家は少なくない。広く知られるように、スペイン国王の援助のもとに世界一周の公開を企てたフェルディナンド・マジェランは1521年にセブ島に到着した。彼は、セブの首長と友好関係を結ぶことができたが、対岸のマクタン島の首長ラプラプに殺きれてしまった。このため、残った部下がその後航海を続け、史上はじめての世界1周を成し遂げた。他方、ラプラプは、スペイン植民者の侵略に最初に抵抗した人物として、今日、フィリピンの"英雄"と見なされている。マジェランのセブ島到着以後、スペインはこの地域を探索するため何度も遠征隊を送るが、失敗を繰り返し、ようやく1543年に、ビリャロボス遠征隊がサマル島とレイテ島に到達した。これらの島々は、時のスペイン王子フェリペ(のちの国王フェリペニ世)にちなんで、「フェリペナス」と命名され、のちにこの名称が全諸島に対して用いられるようになった。さらに1565年には、これらの諸島を征服する目的をもって、ミゲル・ロペス・デ・レガスピの遠征隊がセブ島に上陸した。彼は同年、フィリピン初代総督となり、ここに根拠地を建設し、住民を平定していった。しかし、ポルトガルによる威嚇や食料難などを理由に、1569年にはパナイ島に移り、ついで1571年になるとマニラを植民地経営の根拠地とした。その後、スペイン勢力はマニラを拠点として、ルソン島やピサヤ諸島各地の平定に乗り出すが、これら諸島で、平地部一帯の住民が植民地支配下に置かれるまでに約半世紀の年月を要した。他方、ミンダナオ島とスルー諸島など南部イスラム社会では、三世紀余り続いた植民地支配の間に執拗な抵抗が繰り返され、ついにスペインはこの地域を征服することができなかった。

目本の侵略と軍政

1941年7月、戦雲が太平洋にただようなかで、フィリピンでは予備役と現役兵力が、ダグラス・マッカーサー将軍指揮下のアメリカ陸軍に統合されてアメリカ極東軍(USAFFE)となった。さらに同年11月にはコモンウェルス政府のもとで第2回総選挙が実施され、ケソソとオスメーニャが正副大統領に再選された。しかし、それも束の間のこと、コモンウェルスは、発足後6年目にして最大の危機を迎えた。同年12月8日に日本国の真珠湾攻撃で日米が開戦しその日のうちに日本軍機がフィリピン各地の基地を爆撃したからである。
1941年12月26日にマッカーサーがマニラを無防備都市と宣言してコレヒドール島に後退する一方、日本軍第14方面軍は翌年1月12日には司令官本間雅晴中将が軍政を布告した。その後、日本軍とUSAFFEがバタアン半島で激戦を展開するなかでマッカーサーが三月にオーストラリアに脱出し4月9日にバタアン半島が陥落、投降した8万人の兵士が「死の行進」に駆り立てられた。さらに5月6日にはにはコレヒドール島が陥落し、翌7月にウェインライト小将がラジオで降伏を宣言、日本軍のフィリピン侵略作戦が完了した。この間、ケソン、オスメーニャもオーストラリア経由でアメリカに渡り、五月にはワシントンで亡命政府が樹立された。1942年1月3日の軍政布告と同時に、日本は、軍の作戦にかかわる資源・物資の調達、交通通信網など直轄機構として軍政部(のちに、軍政監部に改称)を設置する一方コモンウェルスの行政機構を温存して、占領下で民生の安定をはかろうとした。すなわち、当時マニラ市長であったホルへ.B.バルガス委員長とするフィリピン行政委員会を1月末に発足させ、同委員会の中に、内務部法務部、財務部、農商務部、教育厚生部、公共事業・通信部の6部門を置きさらに最高裁判所長官、官房長官、主計局長の職を設けた。各部門には目本人顧間がつけられ、長官たちが日本軍の意向に反するような決定を下すことはできなかった.住民に対する監視も強化され、1942年8月には、隣組が組織され、同年一二月になると、すべての政党の解散が命ぜられて、大政翼賛会的組織としてカリバピ(新生比島奉仕団)が発足した。こうしてフィリピンは、日本の「大東亜共栄圏」構想のなかに組み込まれていった。カリバピは、対日協力体制をつくりながらフィリピンに独立を許容することが、軍政を維持するうえで得策と判断した日本に大いに利用された。 1943年6月、東条首相が帝国議会で、年内にフィリピンに独立を与える旨の演説を行うと、カリバピは軍政当局の命を受けてマニラで集会を開き、独立準備委貝会委員を選んだ。委員長にはホセ・P・ラウレルが就任し、憲法が起草された。同年九月には国会議員選挙が実施され、ラウレルが大統領に、ベニグノ・アキノ・シニアが副大統領に選出された。フィリピンは、10月14日、第二次フィリピン共和国として「独立」したが、日本の軍政はその後も続いた。むしろ、国内経済が悪化し、日本軍が前線で敗退するなかで、日本の支配はいっそう厳しさを増していった。

議会制民主主義の復帰から米軍基地撤収まで

1986年2月25日、アキノ政権が誕生し、20年以上続いたマルコス政権に終止符が打たれた。アキノ政権は、翌1987年2月に新憲法を公布した。これによって、1973年憲法で設けられた首相職が廃止され、アメリカ型大統領制に復帰、議会も二院制となった。また、タガログ語を基礎とするフィリピノ語が正式に国語として定められた。ついで同年5月に総選挙が実施され、上下両院でアキノ大統領率いる与党連合(ラバン)が圧勝し、七月に新議会が発足した。さらに、同年7月には包括的投資法が布告され、1991年6月になると新外国投資法が成立した。他方、1988年6月には難航の末、包括的農地改革法が制定され、農地改革の対象地域が全農地に拡大された。しかし、その政治的・経済的基盤は脆弱であった。アキノ大統領の6年間の在任中に発生したクーデタ未遂事件は7回を数えた。マルコス政権から受けついだ260億ドルに達する対外債務は1991年には300億ドル近くにまで膨れ上がり、経済状況は好転しなかった。1986年末には民族民主戦(NDF)との暫定的停戦協定が結ばれたが、翌年二月に交渉が決裂したため、アキノ政権は共産勢力と「全面戦争」の構えをみせ、国軍による掃討作戦を強化していった。このように、政情不安、経済の停滞、治安の悪化が続くなかで、1990年7月にルソン島で大地震が発生し、翌年6月にはピナトゥボ火山が爆発するなど災害が多発して、フィリピンはASEANの"お荷物"とまで呼ばれるようになった。ところが、ビナトゥボ火山の爆発は、1991年の基地協定切れを目前にして、基地存続問題を解決に向かわせる重要なきっかけとなった。1979年の基地協定によって、主な在比米軍基地はスーピック、クラーク両基地を含めて五カ所となっていたが、火山噴火後、アメリカはただちにクラーク基地放棄を決定した。さらに、1991年8月アメリカは、スービックの基地のみ10年間存俗させるという新条約をアキノ政権と調印したものの、同年9月にフィリピン上院がその批准案を否決した。この結果、1992年末までにスービック基地などすべての米軍基地が撤収され、20世紀初頭以来はじめてフィリピンから米軍基地が姿を消すことになったのである。このように、米軍基地をめぐってフィリピン、アメリカ両国の関係が大きく変化するなかで、1992年5月には、ほぼ四半世紀ぶりに民主政権下でフィリピン大統領選挙が実施された。この選挙では、ラモス前国防相が、ミリアム・サンチャゴ元農地改革省長官を僅差で破って当選した。規制の組織や基盤のないサンチャゴが第二位に入ったことは、それまての二大政党政治体制か崩れて、新しいタイプの民主主義がフィリピンで芽生えつつあることを世に示した。ラモスは、23.6%というきわめて低い得票率て大統領の座につきながらも、「安定」「改革」「繁栄」を柱にフィリピン再建に乗り出し、政権の支持基盤を固めることに成功した。フィリピンは、米軍基地撤収決定後、ポスト冷戦時代における再生をめさしてゆっくりと歩み始めたのである。今後、対外関係がアジアに向けていっそう多極化するなかて、フィリピンではどのような過程をへて新たな社会が形成されていくのだろうか。

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